皆さま、こんにちは。
2022年3月21日(春分の日)11時から本堂におきまして今年の春彼岸会兼永代経法要を無事に勤めることができました。
ご参拝くださった皆さまありがとうございました。
寒かったり暖かくなったりと体調管理が難しい気候が続いていますが、今年のお中日(ちゅうにち)はすこし曇が出ていたくらいで、何とか皆さん足を運んでいただくことができました。
正信偈(しょうしんげ)でお勤めをした後に、今回のお話しは、「浄土真宗の法話(ほうわ)では何を聞くのか?」というテーマでお話しをしました。
前回は浄土真宗の勤行(ごんぎょう)、つまり「お勤(つと)め」はどのような歴史があって、どのようなお勤めがあるのかというお話をしましたが、今回はいよいよ浄土真宗の要(かなめ)になる部分です。
なぜ浄土真宗では念仏(ねんぶつ)なのか?
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)ではなく、壁に向かって座るのでもなく、護摩を焚くのでもなく、なぜ南無阿弥陀仏なのか?ということです。
念仏の教えは、親鸞さんが初めて言い出した教えではありません。
インド、中国を経て経典(釈尊の言葉)が親鸞さんのおられた比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)まで伝えられてきた歴史の中で、念仏の教えも伝えられてきました。
俗に浄土教(じょうどきょう)と言われています。
親鸞さんはその浄土教の中から、七人のお坊さんを選び、「七高僧(しちこうそう)」と呼んで尊んでいます。
この念速寺には、その親鸞さんのいただかれた念仏の教えが、令和のこの時代まで、歴代の住職を中心として、お念仏の教えをいただかれた無数のご門徒の皆さまがおられたおかげで、こうして念仏の教えを私たちもいただくことができるのです。
数ある仏教の教えの中で、念仏の教えを選び取るのは一人ひとりです。
念仏の教えのお話しを聞いて、そうだなとうなずき、念仏の教えを中心として生きていこうと決めるのはご自身の決断。
ぜひお話しを聞いて、この人生をいかに生きるのかという課題に出遇っていただきたいと思います。
ここに書くと長くなってしまうので、詳細はぜひ皆さんのご法事でお伝えしたいと思います。
次のお話しの機会は11月3日(文化の日)の報恩講法要です。
またお参りください。
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