沿革

 当寺の開基は近藤賢秀(けんしゅう)といい、三河国(現在の愛知県岡崎市上三ツ木町)の円立寺(えんりゅうじ、現本願寺派)の出身で、江戸時代初期の寛永年間に江戸に来り、中島三右衛門氏より現在の土地の寄進を受けて寛文十二年(1672)に創建しました。

 東京大空襲ですべて消失しましたが、ご門徒の皆様のご懇志により再建され、現在に至っています。

 また墓地には文京区教育委員会の「特志解剖第一号」史跡として、美幾女(みきじょ)の墓が指定されています。美幾女は駒込追分組合、持店(もちだな)彦四郎の娘で、不幸な生活のうちに病気重態となりましたが、医学のために自らの体を医学校での我が国初めての病死体解剖に提供することを希望しました。明治二年八月十二日、三十四歳で没しています。

 人体解剖が道徳的に否定されていた時代にあって、その決断は近代医学に大きな貢献でありました。その精神に触れた医療関係者をはじめ、史跡を訪れる方々が後を絶ちません。渡辺淳一氏の小説『白き旅立ち』には、先代の住職とともに美幾女の話が登場します。

当寺の開基様、賢秀さんの絵像です。

本堂に安置されている阿弥陀如来像

当寺に伝えられている親鸞さんの絵像です。

当寺に伝えられている歴代本願寺住職のうちの一人、達如さんの絵像です。

当寺に伝えられている七高僧(しちこうそう)の御軸です。


上段右側:龍樹(りゅうじゅ) インドの高僧

上段左側:天親(てんじん)もしくは世親(せしん) インドの高僧

2段目:曇鸞(どんらん) 中国の高僧

3段目左側:道綽(どうしゃく) 中国の高僧

3段目右側:善導(ぜんどう) 中国の高僧

下段左側:源信(げんしん) 日本の天台宗の僧侶、恵心僧都(えしんそうず)とも

下段右側:源空(げんくう) 日本の浄土宗の開祖、法然上人のこと

当寺に伝えられている聖徳太子の御軸です。

戦時中に供出されたものの武器にならずに保管されていた当寺の梵鐘が発見され、現在は本堂に安置されています。

親鸞さんの750回忌に合わせて御堂が修復されましたが、こちらの瓦は親鸞さんの御木像が安置されている「御影堂(ごえいどう)」に使われていた瓦です。

同じく「御影堂」に使われていた瓦です。

こちらも「御影堂」と「阿弥陀堂(あみだどう)」の両堂が修復された際の記念品です。

文京区教育委員会 史跡指定の看板

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美幾女のお墓です。文化財保護のため、ケースで覆われています。

墓地の様子です。