2021年11月14日(日)15時より、本堂にてコロナ感染症対策をした上で、写仏の会を開きました。
ご参加くださった皆さま、どうもありがとうございました。
今回の写仏は韋駄天(いだてん)です。
もともとは古くインドのバラモン教に登場するシバ神で、それが仏教に取り入れられて仏法を護る神として伝えられてきたようです。
釈尊のご遺骨、仏舍利(ぶっしゃり)から歯が盗まれたとき、非常に速い足で追いかけて取り返したというところから、韋駄天走(いだてんばしり)という言葉が誕生したんだそうです。
いやぁ知らないことばかりです。
釈尊は生前、弟子たちに、私が死んだら遺体への供養は必要ないと言っていたようですが、実は弟子たちは火葬してお骨をみんなで分け合いました。
そして各部族ごとに石塔(舎利塔、ストゥーパ)を建て、その中に仏舍利(お骨)を収めたのです。
結果として、釈尊を失った仏教徒たちは、釈尊のゆかりの地をめぐったり、その石塔をめぐったりして、供養をすることとなりました。
石でできた舍利塔が、仏教が日本に輸入され、木造建築の五重塔へとつながっていきます。
ストゥーパ→そとうば→卒塔婆になり、現在は追善供養を目的とした卒塔婆ですが、もともとはストゥーパという言葉からきています。
韋駄天さんは、盗まれた釈尊の歯の骨を取り返したという俗説がありますが、私たち人間の心というものはやっかいなものですね。
仏教では執着を離れるということを説きます。
それが苦しみのもとになっているからです。
なぜ出家の仏教徒は数少ない持ち物だけで、しかも定住する家もなく、遊行(ゆぎょう)、つまり教えを人々に説くために移動し続けていたのか?というと、持ち物への執着を離れるためだったのです。
私たちは在家の仏教徒ですから、出家の仏教徒のように必要最低限のものだけで生活するということはできませんが、「少欲知足(しょうよくちそく)」という実践はできるのではないでしょうか?
「欲少なく足るを知る」つまり、あれもこれも欲しいという欲望のままにむさぼり続ける餓鬼(がき)の生き方ではなく、今あるもので十分であると満足することで、欲少なく生きていくということです。
餓鬼というのは、どこかの世界に生きている怖い生き物ではなく、何かを手に入れれば、次の何かを手に入れようと思う私たちの限りのない「欲深さ」の姿です。
大量生産、大量消費の流れにのって、次から次へと浪費していく社会になり、欲深さに対する恥ずかしさというものが消えてしまいました。
結果として物を大切にする心を失い、新しいものばかりに目を奪われ、何でもお金で解決してしまおうという傲慢(ごうまん)な心が蔓延しているように思います。
出家の仏教徒は、布施(ふせ)としていただいた布を身にまとい、袈娑(けさ)として使ったものを、古びてくると床の上で寝るための敷物として使い、次には掃除をするための雑巾として使い、最後の最後までその布を使い切っていきました。
平和になって豊かになったにもかかわらず、私たちの心が満たされないのは、私たち自身の問題です。
さて皆さんの所有欲はどうでしょうか?
次回の写仏の会は12月19日(日)15時からです。お待ちしております。
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