写仏の会を開きました。

2021年10月17日(日)15時から、本堂にてコロナ感染症対策をした上で、写仏の会を開きました。

ご参加くださった皆さま、どうもありがとうございました。


今回の写仏は弁天(べんてん)さんです。

調べるまで知りませんでしたが、弁天さんは女性なんですね。

もともとはインドのヒンズー教の水の神様のようです。


よく見かける弁天さんは2種類にわかれていて、腕が2本の像と8本の像があり、それぞれ琵琶(びわ)と武器を持っています。


琵琶を持っているほうが、インドの女神さまに近いんだそうで、音楽、福徳、学芸などの神様です。

密教で大切にされている『金光明経(こんこうみょうきょう)』に登場する弁天さんは、武器を持っているほうの弁天さんで、戦勝の神様になっているようですが、ほかにも知恵や富などをもたらす神様として親しまれています。


時代が下ると、七福神の一人として祀(まつ)られるようになり、日本全国にある七福神の信仰の中で願(がん)をかける神様になっていきました。


やわらかい表情をしているにもかかわらず、手に持っているのが武器ということで、そのギャップがすごいですが、富をもたらすという点で古くから人々の切実な願いを託されてきたんですね。


ところで皆さんは願いごとをして、それが叶った時、叶わなかった時、どうされていますか?

叶った時、御礼参りをしますか?

叶わなかった時、文句を言いに行きますか?


仏教では、すべては縁起(えんぎ)していると説きます。


すべての事物には必ず因(原因)と縁(条件)とがある。そしてすべての事物は必ず「その他の事物」の因と縁になる。


世の中にあるものはすべて網の目のようにつながりあってお互いに影響しあっているということです。


願いをかけて、それが因になり、必ず果として実現することが決定しているのであれば、かけた願いはいつも叶うはずです。

でも願をかけても叶わない時もあります。


それは「縁」があるからです。


こちらの都合に合う縁もあれば、都合に合わない縁もありますが、こちらがどう受け取るかということに関係なくめぐってくるものが「縁」です。


例えば大学受験に合格するという「果」を得たとします。

その「因」は何か?というと、本人が一生懸命勉強したということもありますが、実はそれだけではありません。


受験票がちゃんと届いた。

当日お腹を壊さなかった。

受験会場へ向かう電車が遅れなかった。

ご両親が塾に行くための費用を出してくれた。

家族が事故で死んだりしなかった。

クラスメイトが問題を起したりしなかった。


などなど、不合格という「果」を得るような「縁」が「なかった」ということもあるのです。


合格したということで、自分もやればできると自信がつくのはいいと思いますが、都合の悪い「縁」がたまたまめぐってこなかったということを忘れてはいけません。


どれだけ万全の準備をしても、都合の悪い「縁」がめぐってきてしまうと、残念ながら不合格という「果」を受け取らなければならない場合もあるのです。


つまり、「すべての事物は縁起している」ということは、今までめぐって来なかった都合のいい縁が突然めぐってくる可能性もあれば、つらくて苦しい時間というものもいずれは去るときが来るということなのです。


今までにできなかったことができるようになることも縁起ですし、今までずっと絶望の底に沈んで抜け出せないと思っていた状況からふとした時に離れることができたというのも、すべてが縁起しているからこそ起こることなのです。


さて、皆さんは今までの人生で経験したこと、そしてこれからの人生の出来事を、どのように考えますか?


見方が変われば、きっと人生もまた違ったものになりますね。


次回の写仏は11月14日(日)15時からです。お待ちしております。

0コメント

  • 1000 / 1000