同朋の会(Zoom)を開きました。

2021年6月6日(日)15時から本堂にてZoomを使って同朋の会を開催しました。

ご参加くださった皆さまありがとうございました。

コロナ禍でも輪読会を開催できるように、初めてZoomを活用することとなりました。

使い方に慣れていないので輪読になかなか集中できませんでしたが、「歎異抄(たんにしょう)」について書かれた三明先生の本を読み終えました。


親鸞さんの教えでは、自力(じりき)を捨てて他力(たりき)をいただくことが大切であると説きます。その他力ということを正しく理解して、自分の問題として腹に落ちないと、お念仏の教えは絵に描いた餅になってしまいます。

今回読んだ部分には、お念仏の教えを聞いてすでに知っているにもかかわらず、教えを信じることのできない人間のやっかいさについて書かれているところがありました。


いつでもどこでも誰でもできるのがお念仏(南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ)ですが、少しでもたくさん称(とな)えたほうが良いのではないかという気持ちがあったり、法話をたくさん聞くと自力を捨てて他力を実践できるようになるのではないかと思ったりします。

たくさん念仏を称えたほうが…という考えの延長線上には、「私はたくさん称えられる」という自分の思いを信じている自力の心があります。

たくさん称えたからといって、浄土で優遇されるということはありません。浄土の住人はみな平等です。

また、法話をたくさん聞いた人のほうが浄土で優遇されるということもありません。お念仏を信じることができるのであれば、教えに触れる機会が一度だけであってもいいのです。


それから、法話会に参加して念仏のお話しを聞くと、「そうだ、他力だ!他力だ!」と思って、自ら他力を実践しようという心が出てきます。

残念ながら他力を実践できるのは仏さまだけなのです。私たちは「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」です。四六時中、かたときも離れることのない煩悩が身に満ち満ちていて、いつも他人よりも自分のことばかりを優先し、自分を正当化し、相手よりも優位に立とうと必死になります。


つまり、仏さまは「えらばす嫌わず見捨てず」ですが、凡夫は「えらんで嫌って見捨て」ます。とても仏さまのように、どんな人もどんな状況も受け止めて包み込むような生き方はできないのです。

たとえ仏さまのように生きようと思っても、疲れていればイライラして相手に当たったり、どんな人も受け入れようと思っても相手に悪態をつかれれば「この野郎」と腹も立ちますし、どれだけ言っても聞かない人のことは諦めて放ってしまうこともあります。

仏さまのすばらしさを知れば知るほど、そうなっていない自分があぶりだされ、今まで見えていなかった自分の姿が明らかになります。


ここが法話を聞くときのポイントです。

私たち現代人は科学技術の進歩もあってとても有能感が強くあります。何でも自分の力で叶えることができると信じています。

でも実際は、いつか終わりを迎える「身」を持った一人の人間で、頭でっかちなその能力の影に隠れている自分自身の闇を見ないようにしているのです。

仏教の教えというのは「不都合な真実」です。私たちが見ないようにしている「苦」を直視させ、どれだけ愚かで汚くて、最低なことをしでかすものなのか、私たちの本当の姿を見つめることは、決して楽しいものではありません。

ですから間に合っている時は、仏教や宗教なんてどうでもいいのです。


ところが、突然やってくる現実が私たちの顔をピシャっとひっぱたくことがあるのです。目を覚ませと。それが「仏縁(ぶつえん)」です。

地震、災害、事故、身近な人を亡くす、健康診断でガンが見つかる、離婚するなどなど、人生にはいろいろなご縁がやってきます。

仏縁をきっかけにして教えに触れ、不都合な真実を聞いて自分の本当の姿を知ると、「そうか、私の生きざまはこうなっていたのか!」と自分のことが言語化され、理解できて、そうすると少し安心して、しばらく経つともっと聞きたいという気持ちになります。不思議ですね。これが「教えに触れる喜び」です。浄土ではいつも教えを聞くことができるとお経に説かれています。


きれいな話ばかり聞いていても、何か物足りない。私たちは本当は自分のことをもっとよく知りたいのです。それが不都合な真実であっても。


ご一緒に教えに触れてみませんか?

次回の同朋の会は、8月29日(日)15時から17時です。

Zoomでの参加を希望される場合は、メールでご連絡ください。

お待ちしております。

瑞雲山 念速寺 Zuiunzan Nensokuji

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