助けてと言えない社会(ブログ)

最近、ジェンダーに関するニュースを読む機会が多くなりました。

私自身が、お坊さんの世界でマイノリティだから、どうしても気になる問題です。


性暴力、性自認、経済格差、生理の貧困、トイレ、生きづらさ、自己実現、ワークライフバランス、夫婦別姓、言葉、外見、洋服など、様々な視点からの意見を読むことができます。


その中でいつも感じるのは、「あるがままの自己で生きることができない窮屈さ」です。


これは男や女というような性別だけではなく、学校や職場、あらゆる社会の中で、それが起こっています。

自己責任というメッセージが社会全体にばらまかれていて、自分のことは自分でやらなければならないという圧力があります。

収入が少ないのも、能力が低いのも、自分の責任で、努力が足りないからだ、というメッセージです。


人間には能力の高い人もいれば低い人もいます。これは努力の結果得られる場合もありますが、どれだけ努力しても得られない場合もあります。

それなのに、能力と努力を要求されて「できない」ならば終わりであると、見捨てられるのです。


本来ならば、困っている人に支援がさしのべられて、社会全体で困っている人とともに生きていく道があるはずなのに、困っている人が放置されてしまう現状があります。


それは強者の世界です。


皆さんは、困った時に「助けて」と言えますか?

私は子育てをするまで、助けてと言えない人間でした。

今も、自分をなかなか大事にできなくて、無理をしてしまうことが多くあります。

でも、子育てをするようになってから、少しずつ考え方が変わりました。


「男は強くあるべきだ」という呪縛が、長い間、男性を縛ってきましたが、男も女も、困った時には誰かを頼っていいというメッセージが、今、必要に思います。

それは、上野千鶴子さんがおっしゃっている「弱者が弱者のままに生きられる世界」だと思います。


「女性が意思決定機関に参画するべきだ」ということが、よく言われるようになりましたが、男性だらけの中に、女性がポンと入ったからといって、すぐに何かが変わるわけではないのです。

それは、弱肉強食の関係がすでにそこにあるからです。



男性だけの組織の中に、弱者が見捨てられて、強者の意見だけが通ってしまう状況があります。

そこに女性が入ったところで、強者の意見だけが通る場であるならば、声の小さい女性が何人入っても結果は同じなのです。


つまり、意思決定機関の中に、多様な意見が存在できなければ、性別構成が変わってもあまり変化はないと私は思うのです。


では、どうなっていったらいいのか?


声の小さな人、声を上げられない人から意見を聞きとっていく、ということです。


自ら手をあげて発言しなくても、意見を持っている人はいます。

強者の場では、そういう人たちの意見は出てきませんが、問いかければ答えてくれる人もいます。


自分の言いたいことを上手に言葉で表現することが苦手な人もいます。

そういう場合は、聞き手がその人の言いたいことが何なのかが分かるまであきらめずに聞いていくことで、意見を引き出すことができます。

その場ではうまく言えなくても、何日か後に聞けば、うまく伝えられることもあるかもしれません。


今までの強者の場では、こういう意見は無視されて、馬鹿にされて、切り捨てられてきました。

時間はかかりますが、意思決定機関に多様性を育むには、丁寧なやり取りが大切だと思います。

弱い自分のままで意思決定に関わることができるならば、誰も見捨てない組織への第一歩だと思うのです。


困った時には助けてと言える、あるがままの自己として生きていくことができる社会は、誰にとっても生きやすい社会です。


できない自分、上手に語れない自分、中途半端な自分であっても排除されずに受け止めてもらえる。

そして、こことは違うどこかに逃げ出したいと思うような苦しい場所ではなく、ここが私の居場所であると言える、そういう人間関係が社会全体に広がることを願っています。

瑞雲山 念速寺 Zuiunzan Nensokuji

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