戦争反対の思い(ブログ)

皆さん、こんにちは。

また久しぶりにブログを更新します。

先日、お寺にもウクライナ支援の募金箱を設置しましたが、ロシアが武力による侵攻をなかなかやめず、犠牲が増え続けています。

世界の国々が様々な考えをもってこの問題に対応していますが、停戦までには至らず、長期化が予想されています。


私は三人の子どもを育てる一人の親として、大人たちがこれだけ集まっても悲しい現実を止めることができない無力感を感じると同時に、世界から戦争をなくすことはとても難しいということを、子どもたちと一緒に考えています。


国の代表は誰もが自分の国の利益になることを優先しがちですが、同じことが子どもを持つ親にも重なります。

公園やら学校やらで、自分の子どものことだけを見て、隣にいる子どものお友達にはにこりともせず、他人の子が悪いことをしても注意するどころか、かえってその親に向かって文句を言う。


ようするに、他人の子どもは知ったことではなく、自分の子どもさえよければそれでいいという親の感覚です。


私も子どもが一人だった時は、同じような感覚がありました。

でも二人目三人目が生まれて、子どもと関わる様々な大人と出会って、その感覚は違うと思うようになりました。


子どもは、うちの子も他の子も、みんなかわいい子どもたち。

どんな家庭に生まれた子どもも、一人の人間として一生懸命今を生きている。

うちの子が泣いたり笑ったりとぼけたりおしっこもらしたりするのと同じように、他の子たちも毎日いろいろある中で成長している。


人類皆きょうだいというか、たとえ国や民族が違っても、一人の人間として生まれて、そして死んでいくという事実は何も違いがないわけです。

親鸞さんの言葉を出すと嫌がる方もいらっしゃるかもしれませんが、私たち人間は仏様から見れば皆、「凡夫(ぼんぶ)」です。


例え長年勉強してきた教えをよく知る僧侶であっても、縁がもよおせば間違いを犯す。仏教徒として一生生きていくと心に誓ったとしても、心の中で相手を殺してやりたいと思うほど腹を立てることもある。外ではいつもにこにこしていても、家に帰れば家族にイライラ暴言で当たり散らしたり。それが「凡夫」です。


でもそれは他の誰かの姿ではありません。

私たち一人ひとりの話です。

仏様の前では、私たちは、いつも仏様から心配されている子どもたちです。


親鸞さんの教えをいただいてきた浄土真宗の教団も、戦時中はプロパガンダに沿うように教えを捻じ曲げてしまった歴史を持っています。

親鸞さんはたとえ流罪になってもその信心を曲げることはありませんでしたが、銃を突きつけられてもその信心を貫くことができるかと聞かれたら、私は自信がありません。


でも、そもそもそんな究極の選択を迫られるような国にしてはいけないと思うのです。

もう武器はいらない。

もう二度と戦争をしてはいけない。

どの国も戦争の悲劇から学ばなくてはいけない。

性別や言語、障害の有無やどんな服装か、どんな信仰かなどなど、属性に左右されることなく、その人がその人らしくどの国にいたとしても、そのいのちをまっとうすることができるように、世界が平和であることというのは、世界中の誰にとっても大切なことだと思うのです。


ウクライナで恐ろしい思いをした子どもたち、きっとPTSDなどの可能性もあるでしょうし、ロシアの戦死した兵士の方にも家族がいて、父親や息子を失った家族の悲しみもあるでしょう。

自分の子どもたちが爆撃にさらされたり、自分の息子や夫が他国の人々を殺しに行って死んでしまったらと考えると、戦争体験者が多くを語らない気持ちがわかるような気がします。


どんな大義名分があっても、人の人生をめちゃくちゃにしてしまう権利はない。

お互いに武器を置いて、ともに生きていくにはどうしたらいいか一緒に考えていきたいと思う今日、この頃です。

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